このところ含意について考えています。
含意のように言外の意味を含んだコミュニケーションを書き記す、もしくは読み解く力が人によってまちまちだと感じる場面がありました。
含意のある文章とは例えば以下のようなものです。
- 今回の研修はうまくいきました。
- 山田さんはよくできていると思います。
- その件は問題ありません。
- ○○してくれている限りは大丈夫ですよ。
これらについて何かの含意を感じるでしょうか。
これらの含意への感度を含意感度と呼ぶとします。
もちろん、ここまでの短文だとわからないかもしれませんが、含意感度が高い人は上記の文章を以下のように読み解きます。
- 今回の研修はうまくいきました。(今回までの研修はうまくいったとはいえません。)
- 山田さんはよくできていると思います。(山田さん以外はよくできているとはいえません。)
- その件は問題ありません。(その件以外については問題があることを否定しません。)
- ○○してくれている限りは大丈夫ですよ。(○○しなくなったら知りませんよ。)
これらのいずれにも共通するのは、文意を限定していることです。
私は決してこうしたものへの感度が高いとは思いませんが、ゲームのルールを書く仕事を始めてから、含意感度に高低があることを理解しました。限定した文章を書く場合、含意感度の高い人は深読みをします。逆に含意感度の高い人が書いた文章を見ても含意感度の低い人は何も感じません。この含意に対するアンテナの感度が、時にコミュニケーションのギャップになっているように感じることもあります。
これが顕在化する場面で最も典型的なのは、契約書です。含意感度の高い専門家は、Aと書く必要はなくBに含意されていると考えますが、そうでない素人はAと書いていないと読み解くことができません。専門家は「ここに書いてあるのになんでわからないのか?」と感じますし、素人は「いいたいことがあるならちゃんとそう書けよ」となります。
こうした含意への興味を潜在的に形にしていたのが、弊社のビジネスゲーム「パラダイス」です。パラダイスでは、含意感度が低いと何を考えて良いのかわかりません。他のビジネスゲームでは「してもよい」というmayの表現を使いますがmayは「しなくてもよい」を含意しますし、「する」は「しない選択はできない」を含意します。
とある会社向けに作った「ホウレンソウモジュール」では、含意感度について解説しています。最近の上司は指示命令を避ける傾向があります。コーチングなど示唆するやり方に習熟するほど、含意によって人を動かすという場面も増えてきます。例えば、「あの人のやり方、とてもいいね。うちの部のみんなにやってほしいな」という言葉には「あなたもやってね」という含意があったりします。
難しいところは、含ませすぎると見えなくなり、含まないと不躾に過ぎることがありえることです。最近、自分が相手によって含意の仕方を変えていることに気付きました。アサーションと同じようにコミュニケーションでは相手の含意感度を踏まえて適切な含意表現を用いるというのが正解なのでしょうか。また、この力を開発することに世間のニーズはあるのでしょうか。そうしたことをこのところぼんやり考えています。
公開日: 2016年8月29日