先週は出張で京都に行ってきました。京都御苑の公孫樹が散って、砂利道に黄色い円を描いているのを見て、とても美しいなぁと感じ、癒されました。もう一週間遅くに京都に行ってみたいですね。
さて、今回は、前回とペアになるエントリです。効果測定についてもう少し考えてみました。
教育の逆説
以前、内田樹さんの「下流志向」の「学びからの逃走」という章で、とても揺さぶられる一節がありました。まず、引用から。ちょっと難しいですが、じっくり味わってみてください。
学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとします。(中略)
「で、キミは何を売る気なのかね?気に入ったら買わないでもないよ」
それを教室の用語に置き換えると、「ひらがなを習うことに何の意味があるのですか」という言葉になるわけです。(中略)
消費主体にとって「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しないのです。(中略)そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断します。(中略)
子どもの目から見て、学校が提供する「教育サービス」のうち、その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。学校教育の場で子どもたちに示されるもののかなりの部分は、子どもたちにはその意味や有用性がまだよく分からないものです。当たり前ですけど、それらのものが何の役に立つかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのかを計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては、教育過程が終了するまで、いうことができないということがあります。
これって、会社における人材育成でもほとんど同じことが言える気がしませんか?
効果測定の無意味さ
効果測定というものの大半が、「終了時点の満足度」「知識の定着度」でしかはかられていない理由の一つがここにあるのではないかと思います。
「成人学習は違う!成人学習はそもそも実利的なものなのだ!」という批判もありそうですが、参加者はなぜそれが大切かを分からなくて当たり前ですし、仮に「研修の目的はこれです」ということが明確に伝えて、それが理解できるのであれば、受ける前に研修は終了してしまうんですよね。
それでも、研修があるということは、「言葉だけでは伝えられないものが存在する」ということなのではないかと思うんです。そのタイプの研修の場合、定点観測をしたところで、効果があるかどうかはその人の直面した場次第なんですよね。
確かに効果測定ということに着目されるご時世だということも分かるのですが、そればかりになってしまうと、知識研修や実務研修など、分かりやすいものしか実施できなくなってしまいます。効果測定するという活動を通じて会社が実現したいものって、研修の知識研修化ではないはずですから、効果測定にあまりこだわってもいけないと思います。
カテゴリー: 考え方
公開日: 2009年11月19日