“配慮ができている”、”配慮が足らない”という言葉をよく聞きます。
配慮の辞書的な意味は”心を配る””気配り””心配り”などと書いてあり、これまたよくわからないと言われがちな概念です。
配慮ができている状態とはどのような状態かと定義しようと思うと、これが結構難しい。
特に、それが出来ていないと言われる人に対して、「もう少し配慮をしよう」と言ったところで、何をすれば配慮ができているのかがそもそもわかっていないので、行動につながることはほとんどないでしょう。
「コミュニケーション力の向上に努めよ」といったものがありますが、これにも同じことがいえます。できていない人には2パターンあり、わかっているけどやらない人と、わかっていないからできない人がいます。後者のわかっていないからできない人に注意を促しても、できるようにはなりません。
こうした概念をどのように学べば良いのか。それを考えるための一つの方法として、各自が配慮だと思うものを表現し合う方法があります。
例えば、配慮って◎◎することだよね、と各自が思う配慮を各々が言語化するようなやり方もあれば、各自が配慮できていると思っている表現を口々に言い合うようなやり方もあります。
先般、当社のイエナイヨを実施いただいている中で、配慮という概念理解が進んだと全参加者が感じる場面がありました。各自が配慮した表現をし、その表現の中で配慮ができている部分にフィードバックをうけ、配慮ができていない部分にフィードバックをうけることで、配慮ができている状態と配慮ができていない状態に補助線が引かれたように思います。
知ることは、区別がつくことでもあります。このように集団でワークを行う中で、難しい概念に対するその場における共通の理解がなされることがあります。そして、その理解は一般にいう「配慮」と大きくズレていない。こうした学び方も体験型ならではだなとしみじみとしました。
公開日: 2017年1月27日